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ソ連の中央アジアからモスクワ時間1957年10月4日(金)AM1:22にスプートニックが打ち上げられ、翌日のラジオモスクワで“地球はソ連製の新しい月を持った”と放送されました。

それはアルミニューム合金で作られた83.6kgの球形で、10月4日の午後にはすでに米国の上空(高度900km)を2回も通過していました。

 

米国民は究極兵器(防衛が不可能な兵器)を先にソ連が入手したことに驚きと恐怖を抱き、さらに米国にそれが無く、対抗手段も持っていないという国民の不安の反動は、当時のアイゼンハワー大統領に政界、マスコミから痛烈な批判が浴びせられることになりました。

米国は自由主義世界のリーダとしての威信を失墜させ、同盟国に対して安全の保障ができなくなったことを自覚せざるを得ませんでした。

 

このような事態に至った理由について容易に理解することができず、国家の科学力、経済力、戦力の現状がソ連と比較してどのような状況になっていて、それを同等以上にするには、どのような努力とどの程度の費用が必要であるかを誰も明確に説明することはできませんでした。

さらに追い討ちをかけるように、11月にはスプートニック2を打ち上げ、それは衛星重量(ペイロード)が508kgで、生命維持装置を備え、ライカという犬を搭乗させていました。

 

衛星の重量が500kgを越えているということは、ソ連がロケットに核爆弾を取り付け、地球上のあらゆる場所を攻撃できることを意味していました。

11月7日のアイゼンハワー大統領はテレビの演説で軍隊に任せておくだけではこの状況を逆転することはできないと認識し、抜本的な対策として科学技術教育を大きく改革することから進めざるを得ないことを強調しました。

 

さらに、11月の13日には民間の力を活用する必要性を認識し、民間による宇宙開発の推進する部門を作ると話しました。

11月25日から米国議会の上院軍備小委員会で73人の各界代表者や専門家からミサイルと宇宙に関する聴聞を2月の中旬まで続けましたが、そこからソ連を逆転できるような方針や具体的な対策を見出すことはできませんでした。

 

軍部は12月6日にフロリダから1.7kgのテスト衛星を打ち上げようとしましたが、1段目のロケットが爆発し、ソ連の指導者から“オレンジ”と揶揄され、東西冷戦の緒戦である宣伝合戦において大敗北を喫してしまいました。

 

12月7日国防長官ニール・マクロイ(Neil McElroy)は宇宙に関する研究開発の一元化を図るため国防総省の傘下に高等研究計画局(Advanced Research Projects Agency ARPA) を作ることを提案し、アイゼンハワー(Dwight D. Eisenhower)大統領がサインしました。

主な任務は防衛に関する先端技術の研究開発の推進とその成果を随時国会に報告することでした。

 

1月31日には、ジュピターCロケットで米国の最初の衛星、エクスプローラ1(約14kg)の打ち上げに成功しましたが国民の不安を解消することはできませんでした。

2月7日には国防総省高等研究計画局が発足し、その主要な課題は弾道ミサイルの防衛、核実験の検出、核攻撃に対する反撃およびその実現に共通する基礎科学として、情報処理、人間行動科学、材料科学に関する研究開発計画の作成を開始しました。

 

業務の推進に当たって特に考慮されたことは、政府は軍事目的のみを優先して民間の科学者と技術者の、純粋で科学的な発想を妨げないように、開発プロジェクトを募集し、それに開発資金を供与する手法をとることにしました。

 

10月1日には民間による宇宙開発を強力に推進するために、米国航空宇宙局(National Aeronautics and Space Administration NASA)を発足させることになりました。(職員8240人、予算340百万ドル)

 軍事目的の宇宙開発としてのARPAと民間主体の宇宙開発としてのNASAは後に米国にインターネットと宇宙旅行という人類にとって意義のある成果をもたらすことになります。 

 

2.ARPARの実験計画

指揮統制プロジェクトの発足

 1961年に米国の電話中継基地がテロ組織によって爆破され、国防総省の回線も一時完全停止してしまったことを受けて、核戦争時代における指揮統制系統(核兵器による攻撃および反撃の指令が必要なとき正確に伝達されないと、一国の運命のみならず地球の運命をも左右する)の重要性が高まる中で、電話回線に依存した指揮命令系統の途絶は致命的な欠陥であり、これに対する対策の必要性が強く認識され、国防総省は指揮統制プロジェクト(Command and Control Project)をARPAに移管し研究開発の促進を図ることになりました。

 

ARPAは早速コンサルタント会社のランド(RAND)社に核戦争にも耐えうる通信システムの研究を委託しました。

 そのころ、レオナルド・クラインロック(Leonard Kleinrock)は電気通信で送信するときのデータを小さなブロックに分割して、各ブロックに番号と宛先を付けて送り、受信側で小さなブロックを番号順に並べて再現する仕組について論文を発表しました。後に(1965年頃から)この方式をARPAでは正式にパケット交換(Packet-switching)方式と呼ぶようになります。

 

 1962年の10月ARPAの指揮統制 プロジェクトの研究開発計画を推進するために情報処理技術を担当する部門(Information Processing Techniques Office IPTO)を設けて、研究推進組織を強化し、コンサルタント会社であるBBN社からJ.C.R.リックライダ(J.C.R. Licklider)を招聘し、最初のIPTO のディレクタに任命しました。リックライダは計算機ネットワークの構築に向けた活動を開始し、大学やアカデミックな研究機関を主体にして開発を推進しようとしていました。

 

しかし、1963初期にARPAディレクタからIPTOへ “その実現に計算機産業になぜ頼ることができないのか” の質問がありました。その一言は、ARPA発足以来、約5年間の経緯を余すところなく物語っているのかもしれません。NASAの活躍に比較して、ARPAの情報処理に関しては見るべき成果もなく開発の方向性も示せないまま経過していました。

 

銀河間ネットワークのアイデア

 この間にどのような経緯があったか不明ですが、当時の事情を推察すると、計算機はメーカや機種が異なるとハードウエア、ソフトウエア共に互換性がないのが一般的で、特にメーカは独自の技術を開発し、それを最大限に活用して特徴のある計算機を作り、それによって特定業種のシェアを独占しようとしていました。

 

当然独自に開発した技術の詳細を公開しないことで、メーカはシェアを守るといったメーカの基本戦略があったため、種類の異なる計算機相互間でデータのやり取りをすることは考慮されていないのが一般的でした。計算機メーカの特色を生かし、“ユーザの抱え込み”を強力に推進していた時代でしたので、計算機相互間を接続するために必要な技術的な調整は非常に困難な状況にありました。

 

また、計算機を単なる演算をする機械(磁気テープによるバッチ処理)と捕らえており、国家の計算機振興策も同様であり、産業界や大学等もその考えに支配されていて、リックライダたちは計算機による通信(タイムシェアリング:時分割処理)の重要性を訴えてもその重要性を理解してくれる人はほとんどいない状況でした。このような状況の中で、リックライダをIPTOのトップに据えたARPAの慧眼に感服せざるを得ません。

 

 遂に、1963年になるとリックライダは今日のインターネットにとても近いかたちの“銀河間ネットワーク”(Intergalactic Network)のアイディアをARPAの内部文書として発表し研究計画の方向性を明確にしました。さらに、ARPAは地上の通信回線が切断されたときの対策の一つとして、人口衛星を通じての通信が有効と考え、ハワイ大学が中心となり衛星通信の研究を開始しています。

 

1964年にはランド社のポール・バラン(Paul Baran)が分散型ネットワークについての論文をIEEEの会報に発表し、その研究で、ネットワークの部分的な障害に対して信頼性を改善できることが指摘され、ARPAに分散型ネットワークの研究についての提案がありました。

1964年の9月にはアイバン・サザーランド(Ivan Sutherland)が第2代のARPA IPTOディレクタになり、ネットワークの研究を具体化する作業に取りかかりました。

 

計算機相互間を接続することに成功

  1965年には計算機相互間を電話回線で接続する実験を計画して、1966年にその計画が実施されました。それはMITのスーパーコンピュータTX-2 とカリフォルニア大学サンタモニカ校の計算機Q-32を専用電話回線と音響カップラー(acoustic couplers:電話の送話器に音に変換したデジタル信号を送り、受話器からの音を電気信号に変換する方式)を使用して計算機相互間を接続することに成功しました。

これにARPAの計算機等も接続して、ネットワークを構成する時に必要となる基本的なインターフェイスであるIMP(Interface Message Processors)はまだ使用されていませんでしたがパケット方式による最初の実験的なネットワークが形成されました。

 

ARPANET実施計画の承認

  1966 年8月にはロバート・テイラー(Robert Taylor)が第3代のARPA IPTOのディレクタになり、ローレンス・ロバート(Lawrence Roberts)がARPA IPTO の主任科学者に就任して、計算機相互接続の実験結果を踏まえてロバートはAPRANETの本格的な設計を開始しました。

 

1967年と68年はARPANETプロジェクトではARPANETに関する政府上層部への説明とネットワークの基本仕様の決定、計画書の作成、契約者選定の作業を進め、計算機ネットワークに関する5年計画を作り、調達、建設、運用、実験終了後のARPA以外の組織への移管方法等を定め、最終的に数百万ドルの予算で開始することが承認されました。

 

ARPANETの研究開発の外部委託に必要な事項を決定する作業が行われ、その概要は、ARPANETの機能を計算機相互間でメッセージを交換できるようにすることにして、それを実現するために、情報を交換する方式や使用するデータの制約等を決定する必要がありました。

 

技術的な基本事項は、計算機間で情報を交換時の文字や文字の集団を伝送する方式、伝送中に発生する誤りの検出方法と誤り発生時の修正(再度伝送を要求する)方法、電話回線への接続(ダイヤルアップ)方法、伝送ルートの選択方法、計算機とIMPに持たせる機能の分担等を決定する必要がありました。また、研究開発を実施する団体と研究に参加する計算機の選定方法の決定を行いました。

 

 最終的にARPANETの研究開発に関する計画書が完成し、そのタイトルは「計算機能力を分割利用するための計算機ネットワーク」(Resource Sharing Computer Networks)でした。

 

1968年6月21日にその実施計画は承認され、研究開発に参加する団体を募集するために、1968年7月には140の参加予定者に送られ、参加募集の説明会には個人参加100人と51の法人、団体が出席しました。この募集に応じて12件の提案があり、その中からARPAは4つの団体を選定し、12月のクリスマスの1週間前に契約の締結を終了し、1969年1月2日からARPANETの研究が公式に開始されました。その結果IMPの開発はBBN社が契約を獲得しましたが、通信手順の開発にはホスト(ネットワークへの接続を受け付ける側)とサイト(ネットワークへ接続要求を出す側)の機種の違いによってハードウエアとソフトウエアが異なることから、これを接続するための技術的な詳細が計算機の機種ごとに異なることから、それぞれの機種に合わせてIMPを作る必要があり、相互間の調整作業が残されていました。

 

ARPAは最初のサイトとして、異なる機種間の接続を前提にして、コンピュータサイエンスに関連したアカデミックなサイトを選定する方針で、IMPの設置に協力的な研究機関から選出し4箇所を選定しました。ロスアンゼルス大学(UCLA)のネットワーク観測センタ(NMC)でネットワークの混雑状況の観測をする提案、SRI(Stanford Research Institute)のネットワーク情報センタ(NIC)においてネットワークで使用される情報を収集する仕事を提案しており、サンタ・バーバラ大学(UCSB)は数学教育への計算機利用の研究、ユタ大学(U of Utah)では計算機を利用したグラフィックの研究を推進していました。

 

NWGの発足

 1969年の2月にはBBN社はホスト用IMPのインターフェイスに関する詳細な仕様を開示し、各サイト相互間を接続するための問題点を調整するために、NWG(Network Working Group)が作られ、会議が開催されましたが問題が複雑多岐に渡ることから、具体的な方針や対策が示せず、各サイトの実務者(ほとんどが大学院の学生で占められていました)によって個々の問題を詳細に検討ことになりました。

 

 1969年の春から夏にかけて、通信手順の詳細をNWGで討議し、計算機間の通信に大まかな見通しが付きました。ARPAはNWGに検討結果を半公式的に承認する権限を与え、4月の7日にRFC(Request For Comments)の第1号である“ホストのソフトウエア(HOST Software)”を公開しました。以降、NWGはネットワークの基準作りを進めることになりました。

 

しかし、インターフェイス(Interface)の設計ができるわけではありませんでしたが、ある特定の計算機に使用するインターフェイスと外部からある特定の信号が来た時、その信号に対して計算機に要求される基本的な動作を設計することができるまでになりました。

 

そしてARPANETが動作するに必要な動作を詳細に拾い出すことができ、解決すべき課題とその対策を明確に記述できるようになりました。しかし、各サイトの特殊事情は考慮されていいませんでしたので、各サイトではそれぞれの特有の課題を抽出して、その解決方法を検討できるようになりました。

 

1969年の9月には設計を担当した主任科学者のローレンス・ロバートが第4代のARPA-IPTOのディレクタに昇格して、ARPANETの歴史的実験を指導していくことになります。

 

3.ARPANETの誕生

 少し遡って、1968年の9月にARPAからUCLA にARPANETの研究に関する計画書(Request For Proposal)が届き、何人かの教授陣は関心を示し、MITから来ていたレナード・クレインロック(Leonard Kleinrock)はパケットスイチングネットワークの動作状況の観測に彼の待ち行列理論を使用する研究計画を作り、そのために必要なネットワーク観測センタ(Network Measurement Center NMC)プロジェクトを作ることをARPAに提案しました。

 

この提案がARPAに採用され、UCLAのNMCはARPANETの動作状況を観察する道具として位置づけられ、さらに、IMP( Interface Message Processor)を最初に接続するという名誉ある作業が与えられました。

 

 IMPが到着する前に、UCLAのNMCソフトウエア担当のミカエル・ウイングフィールド(Michael Wingfield)は大学院生たちと共にIMPの接続に必要なソフトウエアの組み込みを6週間の予定で開始し、予定通りXerox 社製の計算機 Sigma7にソフトウエアの組み込みを完了しました。

 

1969年8月30日にBBN社のロバート・カーン(Robert Kahn)は、最初のIMP(Honeywell DDP 516にソフトウエアを組み込んでいた)をUCLAのNMCに持ってきて、9月1日までに接続を完了するするように指示されていいるが、うまく動作するのでまったく問題ないと告げました。

 

しかし、9月1日のLabor Dayに接続テストを実施しましたが、うまく動作しませんでした。ロバート・カーンはうまく動作しない原因がつかめませんでした。そして、緊急にARPA,GTE,Haneywell,UCLA,ATTの関係者が呼び集められ、検討が開始されまりました。しかし誰も原因を明らかにできませんでしたが、9月2日の朝方になって、一部のデータの保管場所の割り当てを修正し、再度、機械語に翻訳し直したところ動作するようになりました。

 

後に、BBN社がリモートでARPANETのパケット交換に関するデータを収集するためのソフトウエアが組み込まれており、IMPはある状態になるとデータを収集し、パケットに番号をつけて、NMCにデータを送らなければならないのですが、ソフトウエアが重く(計算が予定時間内に終了しない)、必要なときに必要な信号が送り出せないというタイミング上の問題が発生して、動作しなかったことが判りました。

 

 第2番目のIMPは10月の1日にSRIに届けられ、SRIの計算機SDS940にIMPの接続が完了して、UCLAからの接続に成功しました。その時のことをクレインロックはその後のインタビューに答えて次のように話しています。

 

{私達はSRIに電話をかけて、こちらで“L”をタイプしてから、電話で「Lが出ましたか?」と聞きいたところ、「はい、“L”が出ました」とSRIから答えが来ました。次に“O”をタイプしてから、電話で「“O”が出ましたか?」と聞き。「はい、“O”が出ました」と答えが来ました。そして、“G”をタイプしたとき、システムが動作しなくななってしました。しかし、ここからインターネットの偉大な革命がスタートしました。}

 

 11月にはサンタ・バーバラ大学(UCSB)の計算機でIBM社製の360/75に3番目のIMPが接続され、12月にはユタ大学の(U of Utah)の計算機でDEC 社製のPDP-10に4番目のIMPが接続されました。

これが現在驚異的な発展を続けているインターネットの誕生でした。 

 

4.インターネットの歴史に学ぶ

 スプートニックの脅威に対応して組織されたARPANETの研究は軍事目的の実現に関する研究であるにもかかわらず、純粋に科学的研究をしようとする科学技術の本質を理解した行動がありました。

 

  ARPA発足当時の計算機関係者は概して、計算機を単なる演算をする機械(磁気テープによるバッチ処理)と考えており、産業界や大学等もその考えに支配されていて、国家の計算機振興策も同様であるといった状況の中で、メーカは独自の技術を開発し、それを最大限に活用して特徴のある計算機を作り、それによって特定業種のシェアを独占しようとしていました。

 

当然、メーカは独自に開発した技術の詳細を公開しないので、種類の異なる計算機相互間でデータのやり取りをするために必要な技術的調整は非常に困難な状況にありました。このような状況の中で、リックライダたちは"人間が行う通信を計算機が支援する”という考え方を訴えてもその重要性を理解してくれる人はほとんどいませんでした。

 

  このような状況の中で、リックライダを理解し、IPTOのトップに据えたARPAの慧眼に感服せざるを得ません。 そして公募によってこの研究開発を推進することになりましたが、前記のような状況にもかかわらず、いくつかの大学や民間からそれを支える提案がありました。この米国の科学技術の裾野の広さには驚かされます。

 

 実施計画においては民間への移行が当初から計画されていていて、開発が完了すると計画通りに民間に移転されました。日本の政府プロジェクトにも見習っていただきたいと思います。

 

  ネットワークが拡大し、更なる発展をしていくためには、多くの関係者からの新しい提案を採用し、それに伴う問題点やその解決策等を即座に公開することで、多くのネットワーク関係者が同じ認識に立って研究開発を推進する体制が不可欠でした。

 

それには実際の研究に直接携わっている実務者(大学院の院生が中心でした)による会議(NWG;Network Working Group)が推進母体となり、彼らの自由な意見を大事にしたネットワークに関する詳細な規則を作り、これに全権限を与えて、NWGが発行するRFC( Request For Comments)はそのままインターネットの規則になりました。

 

この研究開発は軍事目的のものであったにもかかわらず、民間の科学者と技術者の、純粋で科学的な発想を妨げないという当初の考え方が徹底されたことがインターネットの急速な発展を支えてきたのではないでしょうか。